~やせ細りゆく”子どもの遊び”と、その対策としての大人の”遊び力”~
函館渡辺病院 水関 清
楽しく、意外性のある函館小児科医会学術講演会が開催された。
2018年9月22日、「『子どもの”遊び”が危ない!!』~まず大人が”遊び力”を身につけよう~」と題して2時間にわたっておこなわれた、早川隆志さんの教育講演がそれである。
早川さんは養護教諭としての勤務経験が豊富でな方で、退職後の今は、「富山イタズラ村 子ども遊ばせ隊」の代表をつとめておられる。今回の招聘に至るまでの経過が、冒頭で紹介された。函館小児科医会と早川さんとの接点は、2017年に富山で開催された、第28回日本小児科医会で300名の小児科医を熱狂させたと伝えられる、皿回し遊びワークショップであったという。
講演の始まりは、おどろおどろしい文字で書かれた、四つ折りの封筒からであった。表には、「TAIWAN ISLAND」・「A SPECIMEN」・「DRIED SCORPION」という文字が横書きで三行に書きつづられており、その下には縦書きで、「台湾群島原産」・「さそり標本」・「学名:タイワンコサソリビクリデス」・「危険」の文字列が並ぶ。裏返すと、やや長文で以下の能書きが記されている。
「「さそり」は尾に毒針を有しています。特に台湾群島のさそりは毒が強く人間なら二分、馬なら五分で殺してしまうといいます。又生命力も抜群で干燥した火山灰地に住み水も食料も無で一年以上も平気で生き続けた記録があります。 治兵衛」
台湾は大きな島で群島ではなかったなあ、とか、「干燥」ではなく「乾燥」が正しいんじゃないの、とか思いながら、さらに封筒を開けると、サソリの絵と、その下には「静かに開けること!!」・「open slowly!!」の、震えた手で書かれたような二行の文字が並んでいる。さらに封筒を開くと、突然、中からブルブルという音がして、封筒を持つ手にも振動が伝わる。
「うわあああー!」「うおおおおー!」
とあちこちで声が上がって、封筒から思わず手を放す人が続出する。
種明かしは、封筒の中に納められた、四角くくりぬかれた四角いボール紙の中央に、輪ゴムでキリキリととめられた五円玉であった。封筒を開けた途端、五円玉を固定する輪ゴムがほどけて、封筒の中でそれが回転する。その振動が、開けかかった封筒をたたく音だったのである。
そこで、早川さんのひと言、「こんな、たわいのないことで驚けるのは、皆さんの中に息づいている「子ども力」のおかげなんですよ。」
一気に講演会聴衆の一体感が高まったところで、一本の棒を手に握った早川さんは、もう片手で素早く皿を棒の上に載せて、くるくると回し始める。角度を変えて、回転数を変えて、見事な手さばきを見せてくれながら、こう続ける。
「遊びの中で、身体を動かして汗をかくことを続けていると、いつの間にか上手になって、今度はそれを誰かに見せたくなるんです。」
「さあ、皆さんも」と言われてすすめられるままに、三々五々、皿と棒を手にして座席近くの通路に戻る。そのうち、会場のあちこちで、赤・黄・紫・青の皿が回り始める。。ひと通り各自の挑戦が終わる頃、再び早川さんの語りが始まる。その要旨を示すと、以下の通りである。
「棒を手に持つ」→「手を揺らす」→「身体全体も揺れる」→「皿が落ちる(悔しい)」→「もう一度挑戦」→「続けて挑戦」→「「皿が回るまで挑戦し続ける」→「皿が回る(笑う→嬉しくて胸がはずむ)」→「続けて成功する(皆に見せたくなる)」→「見て視て、と周囲に知らせる(心身が躍り、交流を通して共感を得たくなる)」→「周りの人も回す姿を見せたくて知らせてくる」→「自分が褒められ、相手を褒める(自尊・愛着感情の共有)」
これが、皿回しをする時にみられる、身体と心の動きだという。
人間の性格傾向に対する深い洞察の中から、人間の感情は一定の法則のもとに動いていることを見出して、それを「感情の法則」と名づけたのは、森田正馬(1874-1938)である。わが国ではじめて、性格としての神経質についての系統的に研究した精神医学者で、1920(大正9)年には、神経質症に対する森田療法を創始したことで知られる。森田理論による「感情の法則」とは以下のようなものである。①感情は、そのまま放任すれば山形の曲線をなしひと登りしてついには消失する。②感情は、その衝動を満足すれば、急に静まり消失する。③感情は、同一の感情に慣れれば、鈍くなり不感となる。④感情は、その刺激が継続して起こる時と注意を集中する時に強くなる。⑤感情は新しい経験によってこれを体得し、反復によりますます養成される。
皿回しに即して、この一連の経過を振り返ってみる。まず、「棒を手に取り皿を回す」という身体の動きが、心の動きを促して、成功すれば「快」の感情が生まれる(上記「感情の法則」①、②)。失敗すると「不快」の感情が起こり、挽回しようとして皿回しに挑戦し続けてついに成功した場合はどうただろう。「不快」の感情は、失敗を続ければ④になるが、ついに成功すれば⑤となり、仲間にそれを見せることで⑤の感情はさらに強化されていく。このように森田理論は、身体と心との間の相互作用の中で共感が育まれるまでの、一連の経過の前段部分を余すところなく説明している。「棒を手に持つ」→「手を揺らす」→「身体全体も揺れる」→「皿が落ちる(悔しい)」→「もう一度挑戦」→「続けて挑戦」→「皿が回るまで挑戦し続ける」→「皿が回る(笑う→嬉しくて胸がはずむ)」のところまでである。
では、後段の、「続けて成功する(皆に見せたくなる)」→「見て視て、と周囲に知らせる(心身が躍り、交流を通して共感を得たくなる)」→「周りの人も回す姿を見せたくなって知らせて来る」→「自分が褒められ、相手を褒める(自尊・愛着感情の共有)」については、どうだろうか。早川さんは、この問題を以下のように考えたという。
まず、「遊び」は、単独ではなく、「一緒に」という活動の形をとる時、参加者相互の心と心の響き合いを生みた出す。この響き合いのことは「間主観性」と呼ばれ、遊びによる交流を重ねていくことで、醸成することが出来る。さらに、大人と子供が一緒になって、共通の「遊び」に興じるということは、遊びによって互いの心の中に生まれてくる、「遊びは楽しい」という感情を、相互に確かめ合うことにもつながる。そのような経験の蓄積は、人間の愛着行動を涵養する上での基礎となることは、アメリカの心理学者であるMary Ainsworth(1913-1999)のいう「安全基地」や、イギリスの精神分析家であるJohn Bowlby(1907-1990)の提唱した「愛着理論」からみても、妥当なことと思われる。
早川さんの一連の考察の中でのKey Wordは、いうまでもなく「間主観性」という言葉である。この言葉は本来、オーストリアの哲学者であるEdmund Husserl(1859-1938)が、自我は自身の内面にのみあるのではなく、人間と人間の間にある関係概念として捕らえてこれを間主観性と呼び、自我や他我はその間主観性が枝分かれしたものと位置づけて、デカルト以来の「我思う、ゆえに我あり」とされてきた自我に対するそれまでの認識に対する異説として唱えたものである。
早川さんのいう間主観性はHusserlとは異なるもので、乳幼児保健研究で扱われる、以下の現象のことである大人の表情やしぐさから大人の思いを感じ取って、自分なりの情動を返すことを間主観性と表現しているのである。
以下、この問題についての考察を試みたい。
ここで小児科医の立場から、あらためて子どもの心の動きと行動様式の発達のことを考えてみる。新生児期の泣き声の分化から始まって、乳児期には微笑み、喃語を話し始め、人見知り、好奇心の発露を経て、幼児期の有意語の獲得、自我意識の高まり、語彙数の増加にともなう言語の意味体系の充実と、それぞれの発達段階を形作っていくことが知られているが、この発達段階を通覧してみて非常に特徴的なのは、常に他社との交流が含まれていることである。その上で、相互の社会的交流の基礎となる交流を担保する能力について、進化生態学の観点から捕らえ直してみたい。
長谷川眞理子(総合研究大学院大学)は、ヒトの言語発達を捉えていく中で、ヒトの特殊性をそのコミュニケーション能力に置いた。すなわち、「自分と他者が、同時に同じ外界のものを見て、自分の中に想起されてくるイメージが、他者の中にも想起されている、という事実を相互に伝えあい確認する」情報共有行動能力のことを、氏は「三項関係の理解」とよび、ヒトに特徴的なものとしたのである。
今回の早川さんとの皿回しの体験を例にとれば、自他ともに皿回しに成功すれば「快」、失敗すれば「不快」ではあるものの、簡単に再挑戦できる手軽さは明らかなので、むしろ気持ちは、「悔しい!今度こそうまくやってやる!」という前向きな感情に満たされる。そして、この成功を続けられれば、今度は「誰かに見てもらいたい」という気持ちが湧いてきて、より一層手技に励むことになるのである。
日常生活を振り返ってみると、自分の思いを他者に分かってもらいたい、と思いつめる場面は、些細なことから深刻な背景がある場合まで、多種多様である。しかしながら、早川さんが提示されたのは、「遊び」の場であり、ひと目見れば直感的に分かる「皿回し」という遊びなのである。しかも、バランスをとりつつ棒の上の皿を回すには、一定の身体運動と感覚、そして集中力も要求されるのである。うまくできたか否かの結果も、一目瞭然だが、そこは遊びなので、成否にあまりこだわることなく、余裕をもって受容可能なのである。
北山 修(元:国際基督教大学)は、精神分析家の立場から、二者間「内」交流と二者間「外」交流というふたつの交流を重視した。ひとつの情報に二人のヒト(仮にAとBとする)が接するさまを例にとってみる。まず、ひとつの情報を、それを見たAとBの二者で共有することを二者間「外」交流と呼ぶ。次に、情報に接したA(またはB)が、同じ情報に接したB(またはA)がどう思うかということを想像し、互いの相手の思いを想像した上で、ひとつの情報を共有することを、二者間「内」交流と呼ぶ。そしてカウンセラーにとって特に重要なのは、この二者間「内」交流の感度を高める技術に習熟することであると指摘している。
早川さんの皿回しに戻れば、皿回しという「遊び」を共有することによって、失敗すれば口惜しい、成功すればうれしい、という気持ちをお互いに察するという、二者間「内」交流の経験が出来るだけでなく、「(一緒に)遊ぶことは、楽しいことなんだ」という情緒的かつ非言語的な交流も深められるのである。
山極寿一(京都大学)は、霊長類学者の立場から、ヒトと他の類人猿との差異を、それぞれが属する社会構造に求めている。ゴリラの群れは、基本的には一頭のオスと複数のメスによる、十頭前後の家族的な群れを作っているが、群れ同士は敵対的な関係にあるため、複数の群れが集まってより大きな集団を形成することはない。同じ類人猿でも、チンパンジーは、小さな群れを作らず、複数のオスとメスとが、一定の距離感を保った百頭規模の集団を形成するという。ヒトの場合はさらに特殊で、地域社会という大きなコミュニティに属しつつ、同時に家族という集団の一員でもある。その特殊性の基盤にあるのは、長谷川のいう「三項関係の理解」から生まれてくる、共感能力である。
すなわち、「サルなどの霊長類は、他者のもつイメージを想起することは出来るが、その事実を他者に伝えることはせず、その結果、共同作業は出来ない」のに対して、ヒトは、「他者のもつイメージを想起することが出来るだけでなく、他者にそれ(自分が、他者の持つイメージを想起しているこ)を伝えることが出来る。その結果イメージを共有することが出来、共同作業が可能になる」のである。この能力のおかげで、ヒトは他者の作業をみて学ぶことが出来、その結果適切な協力や役割分担が可能となり、共同作業をする場としての集団の形成も可能となる。共同作業に携わることで、作業目的を共有出来る。やがて、集団における概念の共有へと発展し、ひいては次世代への伝承も可能になる。「文化」を「他者と共有可能な、ものごとに対する理解や概念」で「世代を超えて伝え得るもの」と定義すれば、ヒトが備える「三項関係の理解」能力こそが、文化の基盤といえるのである。
「他者と共有可能なものごと」のひとつとして「遊び」を位置づけること。その「遊び」に求められる必要条件は、目で見てすぐに分かる容易さを備えていること、幅広い年齢層が気軽に参加できること、家の内外を問わずどこでも出来ること、特別な物品や準備がいらないこと、遊びの場所を変えることで新しい発見があること、などが考えられる。早川さん御推薦のそうした遊びは、いないいないバー、べろべろバー、こちょこちょ、おなべふも、なべなべそこぬけ、たかいたかい、いっぽんばし、わらべうた、おうまさんぱっかぱっか、などの存分に身体を使う他愛ない遊び、そして、皿回しや駒廻しや凧揚げ、などなど伝統的な遊戯である。
子どもの遊びを支援し、ともに遊ぶという体験をすることで、遊びによってもたらされる感情体験を共有し、互いの心の響き合う感情世界を涵養すること。早川さんの願いは、そこにある。そして、その根底には、森田理論があり、三項関係に代表される文化人類学知見が、豊かに息づいているのである。
※出典 公益社団法人 函館市医師会 函医時報 NO.65
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